関西汽船の思い出そして終焉

まず最初に、今回のコロナ禍が全世界のクルーズ船業界に与えたダメージが一刻も早く克服されることを願っております!

 

自分の人生を顧みるに、船と言うものに何とも言えない魅力と発展性を見出したのは小学生の頃でした。海からは程遠い所で育った関係上、生活の中で船との出会いと言うものは全くありませんでした。あの頃は関連の書物も少なく僅かの雑誌でしか日本や世界の船を見る事が出来なかった時代です。
今回、大昔の写真を整理して、そのうちの何枚かをBLOGにしたためる事にしました。

 

〇原点となった関西汽船



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画像は1959年に大阪天保山桟橋に停泊していた“こがね丸”。1800総トンの別府航路船です。
左手が桟橋の入り口、更に左の方には画像には入っていませんがロータリーが有って色々な店が有ったのを記憶しています。
姉妹船に にしき丸があり共に戦前に就航して、戦禍を生き延びた客船でした。
当時は、瀬戸内海の各港や四国高知航路等は関西汽船をメインとして、戦後1948年ごろに急造された1000総トンクラスの客船で結ばれていました。アメーバのように島から島へ、生活航路として配船されていた頃です。敗戦から僅か数年、食料不足で国民は飢えに苦しんでいた時代です。物資の輸送も兼ねてこれらの船が整備されたのは当然でしょう。その中で、メインは別府航路で、同時期の1948年には1900総トンの“るり丸“が就航しています。前述の2隻に加え、これら3隻が花形航路である阪神~別府に就航したのだと思います。他の航路船の倍近い大きさの船たちですね。

〇こがね丸の写真説明


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桟橋からの画像です。船を間近から見たものです。 デッキの公室、客室の角窓、そして遊歩甲板。これらの窓を通して非常に未知の世界を感じ憧れました。別世界、と言うべき空間、これは今でも船を見るたびに思う事です。


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後進で桟橋を離れて出港していく画像です。


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方向転換をして、大阪港の出口に向かおうとしています。

 

〇にしき丸


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前述の別府航路船の1隻です。入港して安治川河口に入り間もなく天保山桟橋へ到着、の画像です。
対岸は日立造船桜島工場。今はUSJになっていると思います。それにしても、至る所から黒煙がもうもうと立ち込めていて、当時の大阪はこんなだったんですよね!
尚、この安治川の上流は、市内中心部、中之島を貫き新淀川に合流しています。

 

〇むらさき丸の絵葉書


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船は1960年に“くれない丸”の姉妹船として同年に就航しました。2900総トン、他の別府航路船と較べ1.5倍大きく、又速力も18ノットと3ノット以上程早くなっています。
それまでは夜行便でしたが高速化により、この2隻は朝7時に出港して、夜には目的地に着くと言う、今となっては考えられない終日瀬戸内海の多島美を満喫できる昼行便を実現したわけです。ハネムーン需要で絶大な人気を博したそうですよ。今で言う定期クルーズ船ですね。

 

〇天女丸1953年の絵ハガキが出てきました。

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昭和28年のスタンプが押されていますから僕が6歳の時です。あの頃、既に瀬戸内海航路は大阪商船の内航船会社である関西汽船が台頭していたらしいです。この船、煙突のデザインは大阪商船のマークそっくりです。摂陽商船となっていますが関西汽船の傘下であったと言う記事がありました。
WEB検索でこの船の画像がかなり有りましたが同じスタンプの物は無かった様です。又、お客さんが沢山乗船されている、と言う画像も無かったように思います。


関西汽船の終焉
くれない丸 の3年後、3000トンクラスで改良型のすみれ丸、こはく丸の2隻がフルートに加わりました。 昼行2便体制が確立しました。そして1960年代終わりまでは関西汽船の絶頂期が続きます。年間の利用客は10年前の2倍にあたる150万人近くに達したと言うことです。

ところが1968年に阪九フェリーが神戸、小倉間に就航しました。関西汽船と較べ、大型化した船体、高速化、そしてトラック輸送等、新時代の需要を掘り起こし 既に始まっていたモータリゼーションと相まって急速に関西汽船のシェアーを奪って行ったのです。1970年までに阪九フェリーに続けとばかり、沢山のフェリー会社が設立され、新船が就航しました。

フェリー化の遅れで焦った関西汽船は、乗用車50台が搭載できる旅客フェリー2隻を1971年に投入。同時に長年親しまれていた天保山桟橋から、安治川の少し上流にあたる弁天埠頭に発着場を変えたのです。大阪環状線、地下鉄線の駅近くになります。
当時、一度訪れたことがありますが、辺りは倉庫ばかりで、食堂や商店街なども無く、寂しい、の一言に尽きる光景でした。フェリーに積み込む車両の駐車場確保の為移転したのだと思いますが、これら諸作が関西汽船の躓きの最初になったのだと僕は思っています。他に生きる道は無かったのでしょうか?

その後は、フェリー化の中に埋もれてしまいまい、観光客船のルーツは消えてしまいます。

1975年の山陽新幹線全通が更なるダメ押しとなりました。

今では フェリーサンフラワーと言う存続会社の中に僅かに昔の栄光をとどめている丈になりました。残念でなりません。

 

カリブ海クルーズとの面白い一致、不一致点
関西汽船の客船定期航路は、1970年代でフェリー化の波に飲み込まれて終焉を迎えました。ところで面白いことに同時期、欧米でもスケールと原因は違いますが同じような現象が顕在化していたのです。参考に書き添えておきます。

戦前戦後を通じ、イギリス、欧州と北米、ニューヨーク(NY)を結ぶ北大西洋航路、有名なイギリスのクイーンエリザベス/メリーの8万総トンを超える巨船を筆頭に、各国の花形客船が華やかに乱舞していました。


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SSクイーンエリザベス 1957年の雑誌から引用

 

そんな定期客船航路も、遂に航空機との戦いに敗れ、行く末に暗雲が立ち込めたのが1960年代後半の事でした。
そこに一人のアメリカの実業家Arison氏が登場、ノルウェーの実業家に声を掛け会社を設立、7000総トンの小さな船一隻で始めたのが、カリブ海クルーズの夜明けとなったわけです。FUN SHIP (楽しい船)をキャッチフレーズに過去の豪華客船のイメージを払しょくする、一般国民が参加できる安価なクルーズサービスを提供し始め、アッと言う間にマイアミを世界的なクルーズ拠点に押し上げたのす。あれから実に半世紀が経ちました。今や世界的には安価なクルーズ船が主流となっています。日本でもお馴染みのスタークルーズやコスタクルーズ等。でも 未だに海外からの全ての大型クルーズ船を豪華客船と形容する国内のマスコミ、そして思い込んでいる日本。
何ででしょうか?
今、阪神、別府航路で、瀬戸内海の多島美を満喫できる昼行便はありません。年に何回か、そのような特別企画がある丈です。寂しい限りです。