東広島市の寺社建築、二重虹梁

東広島の寺社建築_二重虹梁(こうりょう)について


全く興味のなかった世界が、ある日の出来事により変わる、そんな経験が稀にはあるんですね。
7月13日に、ボランティアガイドの研修が東広島市北部の豊栄町(とよさかちょう)、本宮(ほんぐう)神社でありました。東広島の寺社建築についての広島大学佐藤大規先生の講座です。実際の建築を見ながらの研修です。内容は建物の時代を推定する技術、例えば床に残る丸柱の痕跡や虹梁に刻まれた彫り物の形による年代推定方法や梁に刻まれた様々な彫り物等々。 
その中で、神社の妻側に設けられた二重虹梁の説明がありました。その時は、それは単なる装飾であり余り気にも留めませんでした。唯、年代が1701年再建とあり、比較できる神社が高屋町にある福岡神社で、こちらは1716年、即ち本宮神社のそれは15年程先に出来た当地最古の二重虹梁との説明が印象に残りました。お寺の歴史については別にあるかと思いますがここでは省きます。

そこで少し文献など調べた結果、奥深い存在理由を発見したのです。歴史的にはお寺を含めると古代、飛鳥時代にまでさかのぼるのかも知れません。


〇基本知識、自分が理解できるように作図してみました。


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寺社建築も含め、日本建築は枠組と言う四角い立方体を形成する柱と梁、桁の上に屋根組と言う棟を中心とした構造物が乗っかっています。そして寺社建築は多くの場合、その屋根組と枠組の間を組み物と言う難解な構造物で支えているのです。
今回の二重虹梁とは、妻側、即ち三角の屋根が見える側で、棟を支える為の梁の事です。分類上は屋根組に入ると思われます。虹梁の梁とは横方向の部材を言います。そして虹は、空にかかる虹のように真ん中が上方向に湾曲している事に由来します。どちらかと言うと両端が少し下がっている、と言った方が良いかもしれません。この形は意匠的な物でもあり、また力学的なものと思われます。下から棟を支えている訳ですから。一番上で棟を支えている柱は束(つか)と呼ばれているそうです。この束は小さな屋根ならそのまま枠組みの梁まで1本で支えますが、それを二つの逆U字形の梁と柱を組み合わせる事で加重を分散している訳です。
尚、梁は他に桁とも言いますが、こちらは主に棟に並行の、即ち平側の水平部材を意味します。そして図示の通り二重虹梁はこの桁をも支えているのです。


〇本宮神社は1701年に再建されました。江戸時代前期です。この二重虹梁は大阪で修行されて帰られたこちらの宮大工さんが造られたものだそうです。


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尚、元々は本殿でしたが、今は拝殿として使用されています。

福岡神社の二重紅陵です。


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今も本殿として使用されています。

佐藤先生によりますと、この福岡神社の二重虹梁は大阪の宮大工さんが直々造られたもの、とかで品格としては本宮神社より優れていると言われていました。とくにバランスに差があるようです。
実際、福岡神社の本殿を見に行きましたが、落ち着いた荘厳な佇まいは見事な物でした。唯、簡単に比較できないのは、本宮神社は赤を主体として外観が綺麗に塗り分けされていて、他方福岡神社は時空の年輪を感じさせる昔のままの深い色合いだったこと。
カラーと白黒の世界を比較し、どちらが寺社建築に合うのか、は好みの問題があるかもしれません。


〇8月に90年前の納屋の解体に立ち会いました。
この妻側にも土壁を取り除くと、同じような棟を支える梁構造が出てきました。


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寺社と較べると小さいので、二重虹梁では無く、しいて言えば一重虹梁、と言ったところでしょうか。


〇今まで、何気なく見ていた寺社建築、でも最近では小さな祠や鐘楼なども新鮮に目を楽しませてくれています。目を凝らして屋根の下を見るようになりました。実際には多種多様な様式があり理解するのは中々大変ですがそれも又一興かと思います。


次回BLOGは、難解な組み物に挑戦してみたいと思います。冬場は余り出歩きたくないので屋内での作業がメインです。