さっぽろ丸その後

昔のフェリーさっぽろ丸その後です。
海外に売却された同船を追跡してみました。
1998年、ギリシャに売却され、IONIAN SKY 等となりました。
2014年までエーゲ海で活躍した船の外観の変化をさっぽろ丸と共に検証してみました。
側面図での比較をCAD上で作図しています。その画像を添付します。

ギリシャでは大改造の上、きれいなクルーズフェリーとして生まれ変わった感じがします。
日本の時代よりも垢抜けしているように見えませんか?

主な外観上の変化としては
1.    煙突の巨大化
2.    後部車両乗降ランプのサイドから船尾への変更
3.    ブリッジデッキ後方のハウスが殆ど廃止されている
4.    遊歩甲板がボートデッキとなり救命艇もしくはテンダーボートが新設されている
5.    その遊歩甲板後部にデッキハウスが延長、追加されている

6.    最後に総トン数が大きく増えている
    さっぽろ丸        11098 総トン
    IONIAN SKY    19539 総トン (1.8倍)

注)総トン数について
さほどデッキハウスが大きく新説されている訳ではないので、この差、1.8倍以上の差、と言うのは 国際総トン数と日本の総トン数の基準が異なるためと思われます。
一般のひとに大きな誤解を与える標記なので是非改善してほしい、と思うのは自分丈でしょうか?

両船を重ねた比較図は、青線が IONIAN SKY となっています。


参考に札幌丸のデータを下記しておきます。数値は丸めてあります。間違いがあるかも?

日本沿海フェリー 北海道~東京 航路
総トン数     11098 総トン
竣工        1974年 林兼(はやしかね)造船
全長/幅/型深/喫水164 / 24/ 9.2 / 6.2 単位メートル
速力        22ノット(航海)
旅客        640名?
車両        8.5mトラック142台 乗用車 55台
 
1998年ギリシャに売却、2014年退役

沖縄、14年振りの飛行機も

沖縄へ、14年ぶりの飛行機
泊(とまりん)港、離島航路の小型フェリーが密集
鹿児島や阪神航路等の中型フェリーは新港などから


午前8時の泊港、フェリーが相次いで入港、フォークリフトが忙しく行き来して、活気ある港の風景
ここは観光地と言うより生活航路、みな忙しい
ターミナルの2階はぐるっと広い回廊になっていて
散歩中の人の憩いの場になっている
そこからのスケッチ

正面の綺麗な船は久米島航路、中々垢抜けした外観をしてる。1200総トン、他よりも新しくしかも大きい。

沖縄本島は南北90キロ、極めて細長い形をしている。ややこしい海岸線の連続で出来ている。今までここの地理を真面目に調べたことが無い。米軍基地との関係等、分かっているようで分かってない。観光案内を見ても理解できない。
そんな自分の為に都合の良い地図を作ってみた。


観光地と米軍基地とが一緒に網羅されている地図が無い、と言うのと、やはり自分にとって極めて遠い存在としての沖縄、と言うことやろうか?

11月初旬、広島発着2泊三日の旅。二日目は那覇発の一日観光バスツアーで首里城から古宇利(こうり)島、そして美ら(ちゅら)水族館へ。
蒸し暑い。向うの人は皆半袖。

首里城 
3年前に焼失した正殿はすっぽりと工事中の建屋に覆われていた。2026年には修復工事が完了するとか。
ここに限らず沖縄の歴史文化は琉球王朝のものであり、大陸の影響を色濃く感じさせる。

古宇利島
エメラルドグリーンに囲まれた別天地、とでも形容しよう。何でか分からんけど、子供の頃何かで見たカプリ島をイメージした。


美ら水族館 先月、島根の水族館アクアスに行っていたのでどうかと思ったけど、そんなことはない、スケールが全く違う。さすが海洋博が残した財産、うまく活用したね、と思った。


以下、余談

実は24年前に仕事の永年勤続で得た休暇と少しの報奨金で行った事がある沖縄。
月日が経つ、歳を重ねる、価値観が変わる、そして今は旅先の歴史文化を見る事に。当時は唯、日本で極力遠い所へ行こう、なら沖縄、石垣、そして西表、と言う単純発想でしかなかったなあ。

余談2
帰りの夕方那覇空港、日に一便しかない広島行の飛行機が故障した。搭乗して、いざ出発と言うところでのアナウンス。結局修理できずに、機材変更となった。指定のゲートで他の機材に乗り換えとなった。
その変更となった機材とはなんと関空行のものやった。ほぼ同じ機種で座席もほぼ同じ、でも全く一緒とはいかず、3人掛けの席で、二人だったのが3人、となった可哀そうな人も居た。


元の関空行の客はどうなったかと言うと、以下推測。
関空便は同日中に他のフライトに振り分け可能、でも広島便は日に1便のみ。欠航になると宿泊代等、会社は損害が大きい。だから、、とまあそんなところか?
1時間半遅れのフライトとなった。そして1人食事代として500円ずつの支給があった。
LCCで無くて良かった!

沖縄、14年振りの飛行機も

沖縄へ、14年ぶりの飛行機
泊(とまりん)港、離島航路の小型フェリーが密集
鹿児島や阪神航路等の中型フェリーは新港などから


午前8時の泊港、フェリーが相次いで入港、フォークリフトが忙しく行き来して、活気ある港の風景
ここは観光地と言うより生活航路、みな忙しい
ターミナルの2階はぐるっと広い回廊になっていて
散歩中の人の憩いの場になっている
そこからのスケッチ

正面の綺麗な船は久米島航路、中々垢抜けした外観をしてる。1200総トン、他よりも新しくしかも大きい。

沖縄本島は南北90キロ、極めて細長い形をしている。ややこしい海岸線の連続で出来ている。今までここの地理を真面目に調べたことが無い。米軍基地との関係等、分かっているようで分かってない。観光案内を見ても理解できない。
そんな自分の為に都合の良い地図を作ってみた。


観光地と米軍基地とが一緒に網羅されている地図が無い、と言うのと、やはり自分にとって極めて遠い存在としての沖縄、と言うことやろうか?

11月初旬、広島発着2泊三日の旅。二日目は那覇発の一日観光バスツアーで首里城から古宇利(こうり)島、そして美ら(ちゅら)水族館へ。
蒸し暑い。向うの人は皆半袖。

首里城 
3年前に焼失した正殿はすっぽりと工事中の建屋に覆われていた。2026年には修復工事が完了するとか。
ここに限らず沖縄の歴史文化は琉球王朝のものであり、大陸の影響を色濃く感じさせる。

古宇利島
エメラルドグリーンに囲まれた別天地、とでも形容しよう。何でか分からんけど、子供の頃何かで見たカプリ島をイメージした。


美ら水族館 先月、島根の水族館アクアスに行っていたのでどうかと思ったけど、そんなことはない、スケールが全く違う。さすが海洋博が残した財産、うまく活用したね、と思った。


以下、余談

実は24年前に仕事の永年勤続で得た休暇と少しの報奨金で行った事がある沖縄。
月日が経つ、歳を重ねる、価値観が変わる、そして今は旅先の歴史文化を見る事に。当時は唯、日本で極力遠い所へ行こう、なら沖縄、石垣、そして西表、と言う単純発想でしかなかったなあ。

余談2
帰りの夕方那覇空港、日に一便しかない広島行の飛行機が故障した。搭乗して、いざ出発と言うところでのアナウンス。結局修理できずに、機材変更となった。指定のゲートで他の機材に乗り換えとなった。
その変更となった機材とはなんと関空行のものやった。ほぼ同じ機種で座席もほぼ同じ、でも全く一緒とはいかず、3人掛けの席で、二人だったのが3人、となった可哀そうな人も居た。


元の関空行の客はどうなったかと言うと、以下推測。
関空便は同日中に他のフライトに振り分け可能、でも広島便は日に1便のみ。欠航になると宿泊代等、会社は損害が大きい。だから、、とまあそんなところか?
1時間半遅れのフライトとなった。そして1人食事代として500円ずつの支給があった。
LCCで無くて良かった!

西条龍王山 その後

龍王山 久々の登山です
月曜日ではありましたが、沢山の登山者に出会いました。一人登山の方、ご夫婦、そして常連のグループ等、老若男女です。
長かったコロナ禍での自粛、そして自縛、今やそれらから解き放たれる時、皆さん色々と工夫されているのだと思います。僕も半径2キロの生活空間を拡大すべく、今朝は西条の龍王山に登った次第です。
登りは登山コース、下山は山頂から尾根に沿って車道を降りていきます。途中、2年前の崩落現場がそのまま残っています。2年前のブログで引用した上からのイメージ画を再度見てください。


f:id:zhongjpn:20200625180420j:image

2年近くたっても上側の崩落現場は当時と変わりません。

そこはおかげさまでと言うべきか、樹木がなぎ倒されていて視界が良いので、広島空港の滑走路と赤い誘導棟が崩落現場、すり鉢状に抉られた箇所の遥か東側、左手の彼方に見ることが出来ます。ちなみに、空港は海抜331メートルの高さにあり、写真は海抜約400メートルの地点で撮りましたので滑走路を少し見下ろす感じになっています。


f:id:zhongjpn:20200625180456j:image


今回の画像はピントが甘かったので、替りに昨年の11月に撮った画像を添付しておきます。

参考ですが、その他 八本松の曽場ケ城山頂上からも、この滑走路を見る事が出来ます。

 

〇2年前の豪雨災害、ここ龍王山一帯の憩いの森でも大規模な土砂崩れ、崩落が何カ所か発生し、広場などかなりの被害を受けました。昨年の11月に訪れたときは未だ復興の動きはありませんでした。
今回目にしたのは、崩落現場の下流域では巨大な重機が何台も入って作業をしていることです。


f:id:zhongjpn:20200625180529j:image

そして何カ所かの道路際は、既に補修が終わった所もありました。最終的にどのような姿になるのか、今は未だわかりませんが、恐らく災害の記憶として一部は残されるのだと思います。


f:id:zhongjpn:20200625180559j:image

下の多目的広場際から、崩落現場を真上に見上げた画像です。この現場、巨大なスロープです。ふとジグザグの巨大滑り台や、ミニロープウエイでも造ったら面白いかな、等ふと思いました。不謹慎でしょうか?


〇さて、そろそろ生活空間の半径を大きくしていきましょう。
最低限のコロナ対策、手洗いとマスク、これぐらいはしておきましょう。尤も今や習慣になってしまっているのでそんなに苦にはならないかも知れませんネ。


龍王山とは:
西条駅の北側に位置する海抜560メートル余りの山です。尤も西条駅そのものが海抜200メートル位あるので実質360メートル位になります。
この山は、日本3大銘醸地の一つとも言われている西条の酒蔵を支える仕込み水を供給している山でもあります。

コロナ日記③

2020年6月18日(木)
気がつけば自粛がいつの間にか自縛になってしまっている今日この頃です。
6月10日から予定されていた西条酒蔵てくてくガイドも結局延期になりましたし、、。


〇安倍のマスクは、6月2日にやっと到着。政府が4月初めに配布を決めた案件ですから、それから2か月を要してやっと東広島市の自宅に届いたことになります。随分と遠い所から来たんでしょう。取りあえず Keep です。
不思議なことに、それより前、コロナ支援金10万円は、5月26日に入金されました。こちらは決定から1か月位しか経ってないと思われます。でも、あちこちのニュースを見ていると、国民の大半には、未だ支給されていないそうで、少し申し訳ないような気がしています。

 

〇全国的にはコロナ禍は沈静化しています。特に関西、中四国では殆ど心配しなくてもいい様な状況にまで落ち着いて来ています。

思えば政府の4月7日の緊急事態宣言以来、自分自身県外には一度も出かけていないのです。 4月3日に山口県錦帯橋に行ったのが最後でした。18切符を使い切れなかったこと、未だに悔しい思いをしています。4月終わりからのGolden Week は、Stay home week とか、どこかの首長がおっしゃってましたしね。


〇6月19日から、全国への移動自粛が解除されます。大阪府では、関西域内からの宿泊客に対して、府の予算でホテル代の大幅割引キャンペーンが発表されました。一人当たり2500円の補助で、いらっしゃいキャンペーンと命名されています。
広島でも、中四国域対象にそんなキャンペーンが有れば是非利用したいと思います。 何か自治体がきっかけを与えてくれないと、中々自縛から抜け出せない人が多いのかも知れません。勿論、僕もそうです。きっかが欲しい!
ご近所にパチンコ好きのおじさんがいます。
最近行ってますか? と尋ねた所、殆ど行ってないよ、とのご返事。自粛以来1か月以上パチンコから離れていて、行くのが億劫になったと、それに行っても儲からないしね、と自嘲気味におっしゃってました。
色々な業界でそのような客離れが起きているとすると、中々経済は元通りにはならないでしょう。インバウンド需要に頼るなど論外ですし。
今まで、恐怖心をあおって来た国、今は逆に外出を積極的に鼓舞する時期に入っていると思いませんか。
コロナ第2波は来るでしょう。吉村知事が言う様に、ゼロリスクの対応はない、でも今までのこの4か月の経験の蓄積で必ず打破出来る、経済は回さないといけない、そうでないと失われる命が出てくる、これが現況だと思います。
大阪モデルでは、通天閣が緑の時は 積極的に出かけよう、但しコロナへの警戒を忘れずに、となっています。今回の宿泊費補助は、その一環でしょう。
今、国に頼ることなく、例えばこの中四国地方の自治体に於いても、各県が協力して、県民の自縛を解く方策が必要ではないでしょうか。そして今後は強力な広域自治が求められる、と思います。コロナ禍のおかげで、おおきな県境を越えた地方自治が実現するかも知れませんネ。

 

関西汽船の思い出そして終焉

まず最初に、今回のコロナ禍が全世界のクルーズ船業界に与えたダメージが一刻も早く克服されることを願っております!

 

自分の人生を顧みるに、船と言うものに何とも言えない魅力と発展性を見出したのは小学生の頃でした。海からは程遠い所で育った関係上、生活の中で船との出会いと言うものは全くありませんでした。あの頃は関連の書物も少なく僅かの雑誌でしか日本や世界の船を見る事が出来なかった時代です。
今回、大昔の写真を整理して、そのうちの何枚かをBLOGにしたためる事にしました。

 

〇原点となった関西汽船



f:id:zhongjpn:20200611185108j:image

画像は1959年に大阪天保山桟橋に停泊していた“こがね丸”。1800総トンの別府航路船です。
左手が桟橋の入り口、更に左の方には画像には入っていませんがロータリーが有って色々な店が有ったのを記憶しています。
姉妹船に にしき丸があり共に戦前に就航して、戦禍を生き延びた客船でした。
当時は、瀬戸内海の各港や四国高知航路等は関西汽船をメインとして、戦後1948年ごろに急造された1000総トンクラスの客船で結ばれていました。アメーバのように島から島へ、生活航路として配船されていた頃です。敗戦から僅か数年、食料不足で国民は飢えに苦しんでいた時代です。物資の輸送も兼ねてこれらの船が整備されたのは当然でしょう。その中で、メインは別府航路で、同時期の1948年には1900総トンの“るり丸“が就航しています。前述の2隻に加え、これら3隻が花形航路である阪神~別府に就航したのだと思います。他の航路船の倍近い大きさの船たちですね。

〇こがね丸の写真説明


f:id:zhongjpn:20200611143058j:image

f:id:zhongjpn:20200611143122j:image

桟橋からの画像です。船を間近から見たものです。 デッキの公室、客室の角窓、そして遊歩甲板。これらの窓を通して非常に未知の世界を感じ憧れました。別世界、と言うべき空間、これは今でも船を見るたびに思う事です。


f:id:zhongjpn:20200611143159j:image
後進で桟橋を離れて出港していく画像です。


f:id:zhongjpn:20200611143242j:image

方向転換をして、大阪港の出口に向かおうとしています。

 

〇にしき丸


f:id:zhongjpn:20200611185246j:image

前述の別府航路船の1隻です。入港して安治川河口に入り間もなく天保山桟橋へ到着、の画像です。
対岸は日立造船桜島工場。今はUSJになっていると思います。それにしても、至る所から黒煙がもうもうと立ち込めていて、当時の大阪はこんなだったんですよね!
尚、この安治川の上流は、市内中心部、中之島を貫き新淀川に合流しています。

 

〇むらさき丸の絵葉書


f:id:zhongjpn:20200611184702j:image
船は1960年に“くれない丸”の姉妹船として同年に就航しました。2900総トン、他の別府航路船と較べ1.5倍大きく、又速力も18ノットと3ノット以上程早くなっています。
それまでは夜行便でしたが高速化により、この2隻は朝7時に出港して、夜には目的地に着くと言う、今となっては考えられない終日瀬戸内海の多島美を満喫できる昼行便を実現したわけです。ハネムーン需要で絶大な人気を博したそうですよ。今で言う定期クルーズ船ですね。

 

〇天女丸1953年の絵ハガキが出てきました。

f:id:zhongjpn:20200611184729j:image
昭和28年のスタンプが押されていますから僕が6歳の時です。あの頃、既に瀬戸内海航路は大阪商船の内航船会社である関西汽船が台頭していたらしいです。この船、煙突のデザインは大阪商船のマークそっくりです。摂陽商船となっていますが関西汽船の傘下であったと言う記事がありました。
WEB検索でこの船の画像がかなり有りましたが同じスタンプの物は無かった様です。又、お客さんが沢山乗船されている、と言う画像も無かったように思います。


関西汽船の終焉
くれない丸 の3年後、3000トンクラスで改良型のすみれ丸、こはく丸の2隻がフルートに加わりました。 昼行2便体制が確立しました。そして1960年代終わりまでは関西汽船の絶頂期が続きます。年間の利用客は10年前の2倍にあたる150万人近くに達したと言うことです。

ところが1968年に阪九フェリーが神戸、小倉間に就航しました。関西汽船と較べ、大型化した船体、高速化、そしてトラック輸送等、新時代の需要を掘り起こし 既に始まっていたモータリゼーションと相まって急速に関西汽船のシェアーを奪って行ったのです。1970年までに阪九フェリーに続けとばかり、沢山のフェリー会社が設立され、新船が就航しました。

フェリー化の遅れで焦った関西汽船は、乗用車50台が搭載できる旅客フェリー2隻を1971年に投入。同時に長年親しまれていた天保山桟橋から、安治川の少し上流にあたる弁天埠頭に発着場を変えたのです。大阪環状線、地下鉄線の駅近くになります。
当時、一度訪れたことがありますが、辺りは倉庫ばかりで、食堂や商店街なども無く、寂しい、の一言に尽きる光景でした。フェリーに積み込む車両の駐車場確保の為移転したのだと思いますが、これら諸作が関西汽船の躓きの最初になったのだと僕は思っています。他に生きる道は無かったのでしょうか?

その後は、フェリー化の中に埋もれてしまいまい、観光客船のルーツは消えてしまいます。

1975年の山陽新幹線全通が更なるダメ押しとなりました。

今では フェリーサンフラワーと言う存続会社の中に僅かに昔の栄光をとどめている丈になりました。残念でなりません。

 

カリブ海クルーズとの面白い一致、不一致点
関西汽船の客船定期航路は、1970年代でフェリー化の波に飲み込まれて終焉を迎えました。ところで面白いことに同時期、欧米でもスケールと原因は違いますが同じような現象が顕在化していたのです。参考に書き添えておきます。

戦前戦後を通じ、イギリス、欧州と北米、ニューヨーク(NY)を結ぶ北大西洋航路、有名なイギリスのクイーンエリザベス/メリーの8万総トンを超える巨船を筆頭に、各国の花形客船が華やかに乱舞していました。


f:id:zhongjpn:20200611184809j:image

SSクイーンエリザベス 1957年の雑誌から引用

 

そんな定期客船航路も、遂に航空機との戦いに敗れ、行く末に暗雲が立ち込めたのが1960年代後半の事でした。
そこに一人のアメリカの実業家Arison氏が登場、ノルウェーの実業家に声を掛け会社を設立、7000総トンの小さな船一隻で始めたのが、カリブ海クルーズの夜明けとなったわけです。FUN SHIP (楽しい船)をキャッチフレーズに過去の豪華客船のイメージを払しょくする、一般国民が参加できる安価なクルーズサービスを提供し始め、アッと言う間にマイアミを世界的なクルーズ拠点に押し上げたのす。あれから実に半世紀が経ちました。今や世界的には安価なクルーズ船が主流となっています。日本でもお馴染みのスタークルーズやコスタクルーズ等。でも 未だに海外からの全ての大型クルーズ船を豪華客船と形容する国内のマスコミ、そして思い込んでいる日本。
何ででしょうか?
今、阪神、別府航路で、瀬戸内海の多島美を満喫できる昼行便はありません。年に何回か、そのような特別企画がある丈です。寂しい限りです。

コロナ日記②

コロナ日記② 2020年5月15日(金)
通天閣 緑の色に 目頭おさえ


〇何で、でしょうか。今月、コロナの大阪府出口戦略が大阪モデルとして吉村知事から発表され、この15日、数値目標達成のシンボルとして通天閣の明かりが黄色から緑に変わりました。 その光景はネットでもテレビでも大きく報道されました。その時、僕に生じた異変です。
何で でしょうか、急に鼻がずるずるしてきて、涙が出てくるのを止めることが出来ませんでした。


僕は南大阪の貧しい家庭で27まで過ごしました。子供の頃、年に何度か母親に連れられて弟と3人、南海電車で難波球場に行ったり、又天下茶屋から乗り換えて阿倍野からは近鉄で、当時羽曳野の病院に入院していた父を見舞ったりの生活でした。途中、必ず見えたのが通天閣。でもあの頃は別世界の塔でした。母からは“あの辺りは怖いとこやから行ったらあかんで” と何度も何度も言われ子供心にそれが焼き付いていました。
だから通天閣には別に良い思い出がある訳ではありません。むしろトラウマになっていたと言うべきでしょう。


高校のころから天王寺公園や動物園そして美術館には足を運ぶことはありましたが、だからと言って通天閣にはあの頃登った記憶が無いんです。あの辺りは怖い所、との思いが気持ちに中に刻み込まれていたんでしょうね。


東広島にきて早や39年が経過しました。でも子供のころから常に好むと好まざるとに関係なく見ていた通天閣への思いは、潜在的にこの脳裏の片隅に留まっていたのだと思います。ノスタルジアと言うんでしょうか。
今でも弟を含め大阪の友人は殆どが南大阪の住人です。彼らも僕と同じ思いで通天閣を見ているのでしょうか。僕は遠くに居るのでイメージでしかわかりませんが。


この9月には大阪の堺東で旧友達との新年会が予定されています。4月の予定が中止になったからです。こんな遅い新年会て、初めてやなあ、と笑って酒を飲みかわしたい!


〇思えば、広島(中四国)の感染者は、2月半ばの大阪での複数のライブハウスでのクラスターが発端ではなかったかと、僕は思っています。あの時、大阪府がライブハウスの店名を公表したことが、今中四国で感染者が比較的低く抑えられている遠因であると考えています。感染源の特定が出来た訳ですから。
でも残念ながらその後も、中四国、この東広島を含め、かなりの感染者が大阪方面と関わりのある人で占められていました。
前回のブログでも一部記述しましたが東広島市では4月16日に大阪から帰省した方、21日には山陽道下りの小谷SAで働く方が各1名発症され当地には激震が走りました、でも、その後関連での発症は無く本当に良かった、と安堵しています。尤も今後どうなるか、は神のみぞ知る、と言う世界ですがね。緊張感を持続して自己防御していく、それに尽きると思います。勿論、他の人に感染させない と言う配慮がそれ以上に重要であることは当然の事ですが。


〇西条の酒蔵ボランティアガイドは6月10日から再始動です。今のところは、ですが。